峯家の物語

戦国時代

私たちの先祖は1220年、阿蘇氏(古事記によれば、神武天皇の皇子「神八井耳命」が阿蘇氏の祖とある)から分家をし「中村」を名乗ったのがはじまりでした。阿蘇大宮司家老職で九州の熊本県阿蘇の辺りを治めていましたが、天正10年(1582年)、兄である三角半島南にあった矢崎城主 中村峯伯耆守惟冬(ナカムラノミネホウキノカミコレフユ)と、先祖である三角半島北にあった綱田城主 中村二大夫は、島津家臣 佐多久政によって攻め落とされ、肥後国は平定へ向かいます。その後、島津軍は豊臣秀吉に降伏し、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が天下統一を果たしました。

戦国の世にて散っていった 中村峯伯耆守惟冬ですが、妻 室(ムロ)と嫡男は生きていました。中村二大夫もまた、無事でした。惟冬の嫡男と二大夫は家臣を連れ、故郷である肥後の国へ戻り戦禍に散った惟冬と一族の御霊を弔う為、桜を植えたとされています。二大夫は明暦年間の1655年から1658年に京都の吉田神社で神学を学び「峯」と名乗り阿蘇神社の神主になりました。現在樹齢400年を超えるヤマザクラは、樹高14m、枝張り東西21.3m、南北26m、幹周り7.35m(参考:熊本県観光サイト「一心行の大桜」より)にもなり、惟冬の菩提樹として毎年見事な花をつけています。地元ではお花見シーズンになると観光スポットして人気を集めているようです。
明治初頭の役職は一領一疋(いちりょういっぴき)の首席で郷士でした。峯家最後の武士は峯宗平(淳一の高祖父)であり、藩主警護の名字帯刀可の藩士とされています。

開拓時代~現在

廃藩置県後、峯宗平は米穀業や食糧保管業を営んでいましたが、それから幾年もの歳月が流れた大正2年。開拓期の北海道へ移り住んだのが、初代になる宗平の妻と二代目の惟一とその妻、三代目になる幼かった宗量でした。宗量(祖父)は大正6年、盤の沢小学校を卒業後に雨竜高等小学校に進学し、卒業後は農業を行いながら冬期間に国語の助教師として勤務していました。開拓に困難を極め入植地の盤の沢から、後に妻となる坂本ツルの家元がある上徳富(現新十津川町大和)に転籍をして、後にツルと婚姻の運びとなりました。昭和4年に岩見沢の二俣に移住の後、昭和18年に地主から農地を購入する事が出来、北海道入植から30年目にして自作農となることが出来きました。昭和20年秋に惟一(曾祖父)は31年ぶりに故郷の熊本白水村に帰郷。菩提と向き合うことが実現しました。
画像提供:ぶらんとマガジン社HO 2024.11月号vol.204

更に戦後~令和へと時代が流れ、現在の私たちは新しい挑戦をしています。先代の 忠一から「土づくりを考えるように」と堆肥盤を与えられ、土づくりに着目。今までの化学合成された肥料だけではなく、自家製堆肥を使った農業に取り組むようになりました。毎年試行錯誤の繰り返しで、あっという間に20年が経ちましたが、人生の折り返し地点を過ぎてもなお、納得のいく堆肥が作れずにいました。そんな時、高校時代の同級生の勧めで岩見沢市の下水道資源を使ってみることに。それから更に試行錯誤を繰り返し、2010年。ようやく納得のいく自家製堆肥が完成しました。およそ30年という長い年月を費やしましたが、納得のいくものが出来ました。思えば、先祖もこうして一心に行をおさめて来たのではないだろうかと想いを巡らせ、この先も”峯”の姓と共に、九州男(くすお)の魂を次の代に繋いでいきたいと思うのです。
1220年~1945年の史実は、従妹 寺西公望氏の調査によるもので敬意を表します。

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